昭和43年10月13日 朝の御理解
御理解第48節「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる」
これはおかげの、一つのキーとでも申しましょうかね。信心させて頂く者の、ここんところを体験させてもらっておくと、いわゆる心強いというか、何時どんな事が起こって来ても、神様のおかげを頂けるというような力強い体験がここから生まれて来る。
わが子といえば、まぁいうなら、一番可愛い者ですよね。親として子供ほど可愛い者はない。その可愛い子供が例えば、その病気をする。その病気も、まぁいうなら重態。ね、まぁちょっと親がうろたえるぐらいな病気といったような場合でも、うろたえてはならん。
うろたえてはいけんと。ね、うろたえてはいけんぞと。ね、その例えば可愛い、可愛いというその子供がです、まぁいうなら(ここんじゃ?)言うことを聞かぬ時というように、いうておられますが、ん。もう構わんと、もう知らんぞというような時があるわけですね、子供でも言うことを聞かなかったら。
お前のよかごつすりゃよかたい、といったような時がある。そういうような心でですね、信心をしてやれとこう。「ままよと思うてほっておくような気になって信心してやれ」と。「おかげが受けられる」と。
でここで、そのおかげが受けられる、とこういうておられる、これはまぁ参照として、47節、その前のところの、を一つ頂いてみたら。「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」と仰る。
ね、「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」と。さぁ病気をする。さぁ直ぐ薬だといったようなことを言うからおかげにならんと。ね、まずお取り次ぎを頂いて、神様にお願いをして、そして、薬ということになれば、おかげになるというわけです。ね。
神様を後にする。そういうことでは、本当のおかげになりませんですね。ここにあるそのおかげというのと、私は「信心してやれ。おかげが受けられる」と48節に仰っておられる言葉は同じですけれども、内容が少し違うとこう。
「ままよと思うてほっておく」ね、そのことはほっておく。ような気になって信心してやれ。いうのは、これは又のみ教えに、「十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心にれよ」と。ね、「ままよとは、死んでもままよのことぞ」とこういう事。
例えば可愛い子供が、もう難しかろうごとある。そういう時にうろたえてはいかん。そういう時にです、ここではいう事を聞かん時にほっておくような心とこういう表現しておられるけれども、もう又のみ教えには「ままよとは死んでもままよ」のことぞと。ままよという心。
このままよという心を出すと徳が受けられる。しかも十二分の徳を受けようと思えばとこう仰っておられる。ですから47節は、ただおかげという感じがいたしましょうね。48節になってくると、こういう信心体験から生まれて来るのが力だと。ね、いわゆるお徳なんだと。
はー、神様一心にすがれば、このような不思議なおかげも受けられる。いわゆる、もうとにかく、まぁいうならばです、もう医者も見離したような病人であっても、ね、子供が、もういうならば息を引き取らんばかりのようにひどい病気であっても、そういう時にそれをほっておいて、神様へ向っていくというような信心。
そういう信心をしてやれば、お徳が受けられる。おかげがここに受けられるといわれておるのに、そのおかげも受けられるだろうが、お徳も受ける。
これ信心の一つの段階を示すものだと思うですね。それぞれの信心。さぁどうかあるといや直ぐ、薬とこういう。それがどうかあるといや、直ぐそれを神様、そして薬という。ね、それが47節。48節になると、もう薬もいうとらん。医者もいうとらん。
もうままよという心。しかも死んでもよかぞ、というような心(もある?)。で、神様一心にすがってある。そこから受けられるおかげ。ね、そこで私はここの47節、48節の中からですね、これは祈れ薬れというような意味だけではない。いや、わが子が病気といったような、病気とかいう場合ではない。
これを他の場合に置き換えてみる、同じことが言えるとこう思うた。ね。例えばお金が足りんからお金を借りに行く。ね、なるほどお金を借りにいきゃ、借り出すかもしれません。ね、神様にお願いせんでかえ、金借りにいってですよ。それは借り出すかもしれんけれどもです、そういう場合にはまずお取り次ぎを頂いて、お願いをして借りにいけ。
ね、そのおかげが違うと。ね、例えば、お金をただ借り出しただけな、おかげじゃない。借りたとこがおかげにならないようなことになるかもしれん。お取り次ぎを頂いてお金が借りれたと。ね、そういう私は信心させて頂くものの一つのこれは心がけといったようなものが。これから感じられるですね。
結局お取り次ぎの一つ絶対性といったようなものが段々分かってくるとですね、お取り次ぎ頂かなければおられない。ね、「高橋博?」先生のお言葉じゃないですけれども、ね、お取り次ぎを頂いておきてきた事はです。良いこと悪いことにつけてみんなよいことと仰る。お取り次ぎを頂かずして起きてきたことはですね、それは良いこと、悪いこと、いやそれは良いことであっても、結果においては悪いというておられます。
これはもう、いわゆるお取り次ぎの働きというものの絶対性というものがね、ここには、感じられますですね。ですからここんところは、祈れ薬れということは、お取り次ぎを頂いてお願いをして、薬とこういっておるわけですね。
なら48節もそうです。わが子の病気でも可愛い、可愛いと思うてうろたえる(たと?)。いうところをまぁ他のことに置き換えて、ここを思うてみますとですね、はーもうとにかく忙しゅうして忙しゅうしてとこういうわけ。
例えていうならば、もう記念祭がまじか、もう何日かの後には記念祭。ですからもうここには御用がいっぱいある。昨日でも朝から、朝の御祈念のまま、次々と御用していきよるうちに、結局一日御用を頂いたという方達ばっかりだった。昨日御用頂いた方達は。
久富さん、勇さんあたりは、朝からちょっと(裏へ?)よってから、ちょっとこれを一つして下さい。あれも一つお願いしますといいよるうちに、とうとう一日その御用があったと。
昨日は秋永先生を初め、高橋さん、それから久保山茂さん、「正輝?」さんで色々、あの今日の御用のための、まぁ様々な大祭に必要な道具なんかの買い集めを、昨日一日に御用を頂かれた。
はー大祭前、しかも記念祭というとこげんも御用があるもんだろうかというように御用がある。昨日お榊切りだったから、永瀬さんと、久富先生は日田の山奥の方まで榊を取りにおいでられた。半日かかって。
というようにですね、例えば一つの大祭なら大祭といったようなことが、そのなるほど誰かしよることは間違いなか。誰かが御用頂きよるけれども、(はとりが?)御用頂きたいと思うけれども、忙しゅうして忙しゅうして。
なら、秋永先生以下、その皆の方達がです、暇人かというとそうじゃない。皆それぞれに仕事を持った人ばっかり。それも(ぬっぴきでは?)ない仕事を持っておる人達ばっかりなの、どの一人、一人だって。
これなんかが、例えばわが子が病気の時に、可愛い可愛いね、一つのことがなされて行く時にです、ね、只忙しか忙しかというて自分の事ばかりに感けておったんではです、それでは本当のおかげにならん。
ね、そういう時に例えば、もう一年祭、記念祭といや、今度一回なんだ。またとないお祭りなんだ。そのお祭りを奉仕させて頂くために、ね、忙しいことも忙しいけれども、ままよという心になってそれは後任する。したような心待ちなんだ。ね。
とりあいずもう投げ、投げ打って、投げ捨てて。例えば御用に打ち込むというかね。もうそれはままよという事。それは内のもの、店のことはどげんなったっちゃかんまんという、いうならままよという心。死んでもままよという心。
ね、そういう私は信者がですね、あって初めて記念祭が出来るとです。記念祭ちお祭り。記念祭、お祭りだけのことじゃありません。ね、教会の運営というものは、そういう打ち込んだ人達があって初めてその教会のスムーズな運営、又は素晴らしいごひれいの元というものが、そこから生まれて来るのである。
ね、誰か、誰かするじゃろう。そりゃ誰かすることは分かっておる。ね、誰かと言わずに、自分自身がです、その気になって信心してやれ、おかげが受けられるというおかげは、もうそれはすでにそれはおかげじゃない。それは、それが徳になる。それが力なんだ。
ね、いよいよ今日は13日。今日からいよいよ本格的な御用が始る。ね、ですから皆さんがですね、例えば今日は、なら13日会ですから、今日という一日は、毎月この月の13日は、ね、私共の願いが成就することのためではない。神様の願いが成就することのために、奉仕しようというグループの人達が集まって、何時も信心共励をする。
ね、今日は13日会という、そのそれじゃなくて、ここの信奉者一同が、やはり集まって、ね、内外の掃除は言うにおよばず、万時万端のご大祭のご準備の手落ちがないように、(そろう?)なことがないように、それを今日は準備をさせて頂こうというのである。
ね、だから今日という一日だけはです、そりゃ仕事にかまけておってはならない。自分のことに感けておってはならない。ね、神様の願いが成就する事のために一つ奉仕させて頂くという信心、いわゆるこの48節をですね、いわゆる47節ではない。今日も(いけん?)。ね、神様にお願いをさせて頂いておって、ね、自分のことに一生懸命になっておるといったようじゃなくてから、もうその医者も薬も(ここしか?)いらない。
もうそれは放任して、ままよという心になって、ね、神様がままになって下さるというか、神様の願いが成就するというか、そういう成就する事のための一日でありたいという願いをお互いが持たせて頂いて、ね、せめてこれからこれまでのお雑きんがけなっとん一つさせて頂こう、これからこれまでの草だけなっとん、取らせて頂こうというような人達の集まりがです、今日の一日の御用になってこなければならんと私は思うんですよね。
神様の、例えば、願いに答えての信心とでも申しましょうかね。神様の願いに答えての御用とでも申しましょうか。ね。それはどういうような、体験かという事は、ここにおかげが受けられると仰るのは私は今日は、このおかげというのは、力が受けられる。お徳が受けられると。
本当に神様を身近に感ずることが出来るというおかげが頂けなければならん。ね、これは、実をいうと、例えばなら教会なら教会の御用だけのこっちゃありませんよ。銘々の自分のお商売をしとるなら、お商売。百姓をしとりゃ百姓。その百姓とか、お商売の中にです、ね、そういう天地の親神様の願いが成就していくことのための信心生活というは出来るもんですね。
ここの場合大祭を(む、ぐぜん?)に控えてのことですから、この教会を中心にお話しておりますけれども、こりゃ自分の場合だって、自分の家の御用だって、理屈は同じです。ね、その御用が神様の願いに通じておる。
私今日、13日会ですから、どうぞ神様の願いにつながる。神様の願いが成就することのために、一人でも多くの信奉者がですね、合楽の信者がその事を自覚して、おかげを頂きますようにという願いをさせて頂きよりましたら、ご心眼にね、様々な電器製品を頂くんですよ。
★電器炊飯器ね。電器掃除機。というようにその、もう様々な、沢山な電器製品を頂くんですよ。ね、っとこうスイッチ一つ入れる。差込さえすりゃご飯がもう出来る。ね、お洗濯が出来る。ね、吸収力の強いその働きを持って、沢山のごみがきれいに吸収されてしまう。お掃除である。
というようにですね、これはいわばその、電源とつながっておる。電器とつながっておる。いうならば、神様とつながっておる働きの事だという風に、今日私は思うた。はーおかげ頂いて万事万端にお繰り合わせを頂いて、神様のご都合ちゃこういうことであろうか。神様の働きというのはこういう事であろうか。こういうお働きの中に、ご都合の中に私共が日々御用を頂いておるというような、日々がですね、いうならば、神様の願いも共に成就していきよる時です。ね。
まぁそういう例を言うなら沢山ありますけども、例えば昨日御祈念の後にです、あの秋永先生が、今日はこんな風で、えー、久留米でしょう。買い物にまいりますと。で、お金を3万円ばかり持っていきたいとこういわれる。
ありゃ、あんたそげん言うたっちゃ、昨日銀行が来てからお金皆持っていったばっかりじゃから、あるじゃろうか、なら(とにかく?)調べてみよう。というて、久富先生と(すえの?)の三人で慌ててその、お初穂整理させて頂いた。
昨日、おー、私の娘がお金がいる事がありましてから、今日いるから、と夕べ、夕べじゃない、昨日の晩に5千円渡してあった。けども、聞いたらまだ、今日はさっち行かなくてもいいというから、ならあの5千円も返しときなさい。秋永先生どんが、買い物にいってお金がいるそうだからと、というてその、その5千円をもろうて、それから、そのお金を(せおい?)出した。
ところが、3万5千500円あった。その5千円ともに。だからその5千円あんまりいらなかったわけなんですね。先生、丁度3万円あった。3万円必要といや3万円ここにある。いわゆるその、まぁね、神様とのつながり。秋永先生が3万円いるという事を神様がちゃんとご承知になる。
ですから、もうそれこそ、ね、もう5千円ばっかり足らん事もなからなければ、多すぎる事もない。私の人間心がひょっとして足らんかもしれんからというて、娘にやっとった、それも取り返しとったけども、それももう必要じゃなかった。
3万5千500円あった。その5千円と。だから、いわば3万500円あったわけである。そういう時にです、んなら例えば、先生方が感じるだろうと思う事はです、はー今日の買い物は神乍な事だなぁという事。
私もまた、どういうものを買うてこうがです、今日の買い物は神乍らにこの人達が買うてくるんだなぁと私も思いよる。神様のご都合の中にあってです、いわゆる神様のそういう働きの中に、4人の者が使われて、久留米に買い物に行ったという事になる。
それは私がお取次ぎさせて頂く者もそれを感ずるなら、それの御用をさせて頂く者もです、はーこげんも間違いのない働きの中に今日は一日御用にお使い回し頂いたんだという事が分かる。
だから、有り難いでしょうが。自分が、自分の思いで御用したんじゃない。神様にお使いまわしを頂いておったんだと。そういう御用の中にです、浸らせて頂かなければ私は力はつかん。お徳は受けられんとこう思う。
ね、いわゆる、神様とのそうしたつながり、ね、電器製品が、電器一つで、スイッチ一つで、その様々な用をたしていくようにです。ね、お取次ぎを頂いて、お願いをして、神様の働きがここに、ね、掃除なら掃除、選択なら選択が出来ていく。
そういうおかげの中にあらせて頂いて始めて私は、神様のおかげを実感することができると同時にです、それを実感するということは、それを(もうさず?)ははーこういう有り方になれば、こういうおかげが受けられるというです、それが力にならないはずがないと私は思うんです。ね。
それには、例えば、只自分のことだけに感けるのでなく。只忙しい忙しいというて、忙しいことに感けることではない。そうした例えば、神様の御用に直接お使い回しを頂くような中からです、そういう体験を頂いて、お互いの信心生活というものが、そこに自分達の生活の上にも、それを自分の用とせず神様の御用として出来るようなおかげを頂いて、始めて日常生活の上にもです、ね、神様のいわば十全な働きというかね、行き届いたお働きというか。そういうお働きの中にあって、安心が頂け、喜びが頂けるのである。
私はここ幾日間、お互いの「わが子が病気で」というところをですね、家の方にはこのような手の離されん仕事もあるけれども、ね、それこそままよという気になって、このご大祭を、記念祭を奉仕させて頂こうと。というような人達の上にです、ね、最後におかげが受けられるというか、今日はその、ここで言うおかげが受けられるというのは、ね、力が受けられる、お徳が受けられる。
今度の大祭によって、一徳受けるぞと。といったようなことは、そういう信心から、でなからなければ、お徳が受けられると言う事はない。只、記念祭にお参りしたというだけでお徳が受けられるはずない。
ね、ご大祭を仕えるための、そうした奉仕がですね、祈れ薬れでもなからなければ、んー、勿論薬れ祈れでもない。それこそわが子が病気の時に可愛い可愛いと思うような心も打ち捨てて、ね、それこそ(そっちらの方は?)もうままよというような心になって、家のことは神様におすがりしといて、ね、神様の御用に一つ直参させてもらおうと、いうような信心から、お徳が受けられる。
これは私の体験から言うてもそれがはっきりいえれる。ね、そんなら、そういうような働きの中からです、ね、神様はどういう、そのおかげの実感というのが頂けれるかと。またその実感がなからなければ出来ることじゃない。
はー神様のお働きの中に、神様のおかげで、こう御用させて頂きよるんだなぁという実感が。例えば昨日、秋永先生方が、買い物に行った時の(後先の?)事情からです、ね、そういう御用の中にお使い回し頂いておるなぁということを感じられるであろうような、働きがです、ここに頂けれるのです。
ね、そういうおかげを体験させて頂きながら、お徳を受けていこうというわけですね。勿論それにおかげが伴わないはずはありません。
今日のその御理解がですね、祈れ薬れとか、ね、病気とか、いうなら子供の病気の時と、いったような風に表現しておられますけれども、これは信心させて頂く者の、これは病気だけではない。子供だけのことではない。もう全てのことにそれを応用出来れる御理解だとこう思います。
ね、でそこにこそ、信心の妙味というかね、いわゆる信心の気味というかね、お徳を受けていくための一つの信心の気味に触れていけれる信心を教えておられると思うのです。どうぞ。
梶原 佳行